アスペルガー症候群は、よく「空気読めない人」なんて言われ方をしていたよね。それが「障害」だなんて考えすぎじゃない?っても思われがちだけど、空気が読めない人になるわけを解説するよ。
初めに言っておくけど
初めに言っておくけど、あたしは医療関係者ではない。
こんなのは医学的に立証されていないシロウトの思い込みだというなら、どうぞ批判してくれ。
医師や発達障害支援者が、実際にアスペルガーと一緒に十数年も一緒に暮らしたこともないことは知っている。机上の研究データで云々言っていることは知っているし、悩める多くのカサンドラの味方でないことも多々あることは知っている。
これは、あたしがアスペ元夫と我が子を観察し、何年にも渡って調べ照らし合わせてみた結果だ。
ASDって何の障害なの?
たいていのサイト・・・クリニックや厚生労働省の「e-ヘルスネット」には「対人関係が苦手」「共感力が乏しい」「社会性・コミュニケーションの障害」などと書かれている。
本人のどこが悪いのかパッとわからないと思わない?
「障害」っていうと、健常者と障害者。健常者にはあるけど、障害者には何か欠損があることで大多数の人と違って困難があるって意味でしょう?例えば、手足がないとか、染色体の異常でダウン症だとか、目の中にある色を感知する受容体の異常で色覚異常があるとか。
ASDは、本人の何に異常があるのか?と言えば、「脳」だ。
コミュニケーションや対人関係といった他者との関係性を障害というのではなく、ASD当事者個人の「脳」に障害があるというべきだと思う。
ミラーニューロンの発見
脳の事って、実はまだ全然解明されてない。だけど近年ドンドン新しい事が研究で分かってきているそうだよ。
人間って、何かを見聞きして、マネすることで成長するでしょう?そんなの子どもの成長をみていれば、当たり前すぎるんだけども、それは脳神経学的に「ミラーニューロン」という脳細胞がかかわってることが判ったってことね。
最初に、見たものを模倣する脳の組織があることはマカクザルの脳を解剖して1996年に発見された。
その後、検証されてミラーニューロンは脳の下前頭皮質と下頭頂皮質の両方に存在することが判明して、ヒトの脳にも同様の領域に似たものがあるってことが判った。
誰かが美味しいものを食べていると、自分も食べたくなったり
誰かが悲しみに暮れて泣いていると、自分も悲しくなったり
誰かが痛い目に遭っていると、自分も痛みや恐怖を味わったり
それらはミラーニューロンが働いていることが判ったそうだ。
学術的な話は分かりにくいので端折るけど、要はこの「ミラーニューロン不全」がASDの障害の原因という説だ。まだ、憶測の域をでないという話だが、あたしにはすべて腑に落ちた。いずれ研究が進めばそれも明確なデータをもって証明されるんじゃないかと思っている。
ミラーニューロン不全による学習障害
あたしは、ASDを「コミュニケーション・社会性・共感性の障害」と呼ぶことが、まずいんじゃないの?と思っている。
それは、かならず出てくる認知のゆがみで「いろんな人がいるよ」「性格のウチだよ」「コミュ障はふつうにいるよ」なんて理解をしてしまう人が出てくるからだ。人間の寛容さ・多様性を受け入れると言えば聞こえはいいが、非科学的すぎる。こういう人たちによって、カサンドラ症候群は加速する。(そしてたいていそう言う楽観的な人は、当事者と深くかかわったことはない)
それに、ASD当事者本人も気付かないうちに「自分は、コミュ障で社会適応性がなく、共感性を持てない・・・」とネガティブ思考が刷り込まれてしまう。
ASDの診断がおりて、社会性や共感性を持たないことを「脚の無いやつに立てというのか?」という論調で、自己中街道まっしぐらになられても困るんだよ。そんな人間を誰も好まないのだから。そんな認識されると、本人もバッドエンドへと突き進んでしまうことになる。
さらに、そのまま受け入れてもらえないことを人格否定だと受け取ってしまうと、もはや健常者へ敵意を向けるでしょう?それじゃダメ。そもそも「普通」であれば、「自閉症スペクトラム/アスペルガー症候群」という診断名はできていないわけで。何が、ASDの「障害・やろうとしてもできないこと」なのかを明確にしなきゃダメ。
- コミュニケーションするための材料を学習できない。
- 社会的に周囲がやっていることを自然と真似できない。
- 共感するために必要な共通の出来事を認識しにくい。
ASDは、正に脳のミラーニューロンがうまく働かないことによる学習障害だよ。
コミュニケーションができないわけじゃないし、社会性が持てないわけじゃないし、共感できないわけじゃない。
真似できない学習障害で説明がつく
ミラーニューロンの不全の度合いは、おそらくASD当事者もそれぞれだろうとは思うが、それが「コミュニケーション・社会性・共感性の障害」の「原因」だということの説明ができる。
例を挙げると、我が子が幼稚園の時。
その時までは、我が子が成長の遅い子ではあると思っていたけれど、学習障害やASDとは思っていなかった。
参観に行ったその日、ランチタイムの準備時間、我が子は途方に暮れて泣いていた。
先生の指示はこうだ。
「さあみんな、机を並べて、お弁当の準備をしましょう~」
周りのお友達は、お弁当が入ったボックスから各々お弁当を取り出し、並べなおした机の上にランチョンマットを拡げてそこにお弁当を置いていた。
「何やってるの!早くしなさい!」と先生の追い打ちで我が子はさらにフリーズ。
我が子は、何をしろと言われているのかがわからず、叱られて泣いていた。
胸が締め付けられた。
我が子は何をしていいかわからない、周りの子を見て真似をすることができなかった。
一度に1つ以上の事をいわれると理解することが難しかったんだ。
「さあみんな」(みんなって?)
「机を並べて」(机をどう並べる?)
「お弁当の準備」(お弁当ってどこ?/机を並べることはこの時点で消えている)
「何やってるの」(何やってるって答えればいい?)
「早くしなさい」(何を?/この時点で机もお弁当の準備も消えている)
言われたことの最新のことをまずやろうとする傾向は、父親と同じだった。
順番にこなさないとできないことを、前提項目をやらずにやろうとするため、遂行できない。
つまり、机を並べるもお弁当を出すもすっとばして、「早くしよう」だけをやろうとする。
当然、お弁当を食べる準備を整えることができない。
楽しいはずのお弁当の時間、我が子は何をしていいかわからず独りだけ途方に暮れていた。
かわいそうに、たった2つの指示が、我が子には理解できなかった。
言語化されてないボックスからお弁当を出すという指示が我が子にはわからなかった。
周りの子の行動を観察できない様子は、ミラーニューロンが機能していないことを指していた。
その数年後に受けたWISKテストでは、短期記憶と「符合」が弱いことが判った。
学習できずに大人になっていく
我が子がとても不憫に思えた。
1つ1つでなければ学習につまづくのだ。
周りの子の成長速度・学習効率と比べたら、大きく遅れていくことは目に見えた。
そうして、一緒にいても心労と虚無しか感じられないアスペ元夫が出来上がるんだなと理解した。
「空気が読めない」「思いやりのない行動を取る」トラブルメーカーの大人のアスペルガー。
思い返せば、アスペ夫は自分の得意なこと以外はほとんど「知らない」と不服そうにしている人間だった。
知ることを喜ばず、旅行なども疲れるだけと行きたがらなかった。友達を呼んだときは酷く神経質になり、挨拶もせず部屋に閉じこもり、とかく変化を好まなかった。何か新しい提案をすれば、まず面倒くさがった。部屋を片付け整理整頓することも、ゴミ箱に袋を掛ける事や靴下のたたみ方、洗濯物の干し方、靴の揃え方、電気の付けっぱなしやそういったこまごまとした日常生活の躾けができていない人だった。(まぁ、男だからそういうもんなのかな?と思っていた)
後から思えば、周りと同調的な学習ができなかったことによる劣等感が、コミュ障を招き、コミュ障になることで共通の話題や共有する機会がなくなり、社会性を失っていき、問題視されることになった。問題視されることを攻撃とうけとり、自尊心を守るために自己防衛本能が働き、他者を憎む人間ができていったんだろう。
元夫が会社でトラブルを起こしていたのも、周りとの疎通が取れていないことが原因だった。
理不尽な事ばかり言われると元夫は会社側のせいにしていたけれど・・・確かにブラックな働かせ方をしていた会社側の無茶振りもあったけれど、よくよく聞くと原因は報連相してない元夫だった。遅刻もしょっちゅうだったしね。
彼も、小さいころに・・・いや、今まで生きてきた中のどの時点でも、我が子のように途方に暮れて泣いてたのかもしれない。泣くこともせず、無視して自分のしたいことをすることに注力することにしたのかもしれない。(ちな、仕事領域では職人的天才)
結婚前から離婚後の彼を観察した結果として言えるのは、自ら積極的にコミュニケーションして他人と健全な会話ができれば社会生活は改善できるし、もっと早くに共感できる知識を自発的に学習できていたら、家族としてやっていける可能性もあったのにねってことだ。失ってから気付く、失ったことで気付くこともあるから、あたしは離婚して本当に良かったと思っている。
障害受容と早期療育が要だろう
「障害受容」という言葉がある。
障害を自らが受け入れ、周りの家族が受け入れるという言葉だ。
カサンドラの辛いところは、これに先に気付くのはカサンドラだからだ。
ミラーニューロンの不全は、自分自身を多角的にとらえることを難しくしているから本人よりも家族やパートナーが先に気付くだろう。なんか変だなってね。
なんか変だなって思っても、それを認めたくない心の動きがある。
自分のパートナーや子どもが障害という弱点・欠陥があるなんて信じたくないからだ。
たまに居るよね、障害者かもしれないと疑うと、偏見や差別はいけない!という人。
誰かをみだりに障害がある人だと見る事は、失礼な事だという人。
我が子が障害者だなんて信じたくない親。
でも、早期療育や障害に応じた学習サポートを得られないことの方が不幸じゃないか?
ASDがミラーニューロン不全による学習障害だとするなら、本人が受け入れることからしか始まらない。
目が見えなければ点字を覚えるように、
耳が聞こえなければ手話を覚えるように、
脚がなければ車いすや義足を使うように、
補完できる何かを身に着け他者との接点を保つことだと思う。
まぁ、大人になってしまうと生活様式が固まり、意識を変えにくいから、今無自覚に大人になって二次障害を抱えているASDにこれからの変化は正直難しいんじゃないかと思うけど。ASD本人が、孤独を選びたいのならそうすればいいと思うんだよね。ただ、妻や子をカサンドラ症候群に追いやる悲劇は、減らせたらいいのにと思っている。
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